• 国際ロータリー第2660地区 大阪イブニングロータリークラブ

幹事による報告

第1日目 5月30日(金)

参加者の内、Y会員が一日遅れで残りの会長、国際奉仕委員長、H会員、幹事が集合時間午後7時35分より少し早く集合した。会長エレクトが車で関西空港まで見送りをして下さった。空港は、SARSへの懸念からか、いつもはこの時間帯アジア方面への便も結構あるように思うが、オーストラリア便のコーナー以外はまるでゴーストタウンさながらであった。受付では、京都篠山RC始めいくつかのロータリークラブの名前が受付に下がっていた。JTB大阪教育旅行の担当者、それに2人の関係者が渡航手続きを手伝ってくれた。定刻より遅れての Take off。水平飛行に入って遅い夕食。明日からの日程を思いながらそれぞれ浅い休息に入った。

第2日目 5月31日(土)

我々が搭乗する関西空港発JAL777便は少々の遅れのフライトであったが、この飛行機もSARSの影響か搭乗率は80%ぐらい、お陰でゆったりとブリスベーンまで8時間のフライトののちJTB現地ガイドの待つブリスベーン国際空港に降り立った。入国手続きの後、まだ、出勤の車も少ない町の中を観光に出発、明日参加するMargate Conference Centreや至る所につり下げられた世界大会を祝う垂れ幕を見ながら歴史の新しいまた多民族が創り上げた文化や施設、そして何よりも緑多い自然を目の当たりにした。
コアラカランビン・ワイルド・サンクチュアリーには、オーストラリア原産の動物の保有数は世界一、約1700種類いる。やはりその中での一番はコアラを抱っこしての記念撮影だ。それとカンガルーの餌付け。4人はそれぞれ15$(1$=約80円)也を支払って、順にぱちり。それぞれの写真を見せ合って、「可愛いねえ。」(コアラがです。間違えないように)
夕食は、旅行社によってセットされたものであったが、前菜と称して、ワニ、エミュー、カンガルー肉が出され、珍しさはあったが、遠慮させて貰った。
メインディッシュにはオージービーフが出されたが、味は今ー、まあ、グルメツアーではないので仕方ないかと納得。ホテルは、5つ星であったが食事は1つ星との会員の評。ビールは現地の4 Xビールが気に入った。このとき、隣席の外国人ご夫妻に折り鶴のプレゼントをし、どこからですかと尋ねたところアメリカ北部とカナダ南部とを共有するロータリークラブのガバナーだと云ってご自分の胸のバッジをはすずして下さったので、日本から持参したバッジをお返しした。
オーストラリアでは有袋類など他の大陸では見ることの出来ない貴重な動物や植物が生育しているが、カンガルーは近年その数を増し、生態系の安定からも捕獲が認められている。また、高速道路などにも飛び出して、交通事故も多発するので、車の前には車防護のための「カンガルーバー」が取り付けられた車が走っていた。
この国の主な産業は、鉄鉱石やアルミナ原石、金などの鉱工業、農業では北のケアンズ付近のサトウキビなどがあげられるが、現在ハワイのお土産の定番となっているマカダミアンナッツはその原産はブリスベーンから50kmぐらい離れたところであるらしい。1903年にはカルグリーで金が発見され、世界の総発掘量の10%がオーストラリアで占められ、つい最近も新しい鉱脈が発見されたと云うことである。途中、アメリカンチューリップやコーラルツリー(沖縄のディゴ)、赤やピンクのパウダーパフ、ボトルブラッシュそれに国花であるワトルの木などオーストラリアならではの樹木を見た。
夜は、早速明日の大会で、当クラブが独自に用意した来年度の大阪大会参加招請用のリーフレット、英語版大阪市内地図と共に折り鶴を手渡そうということになり、みんなで急避クラフト数室、そして英会話教室が開催された。
国際奉仕委員長のジョークと慣れない折り紙をしながら”We are looking forward to seeing you next year in Osaka” ”Please have a look” ”I came from Osaka” などそれぞれが思い思いの短文をしっかり頭にたたき込んで就寝した。

第3日目 6月1日(日)

朝7時30分、日本人による朝食会に参加するためコンベンション会場に向けて出発。爽やかな晴天、気温の予想も10℃~19℃ということで気持ちの良い一日となりそうな予感がした。バスの中でもう一度英語のおさらい。
朝食会では、ビチャイ・ラタクル会長の紹介と挨拶、板橋元理事による理事等来賓紹介、来年度に向けての千玄室氏の挨拶などがあり、多くの日本各地からの会員が参集した。ジュースやコーヒー、ベーコン、スクランブルエッグなどのオーストラリアン・ブレックファースト・スタイル(?)。我々は左端2列目のテーブルに北海道札幌ロータリークラブの会長ご夫妻と同席、早速名刺交換ののち歓談が始まった。「どこであってもやあとおうよ」というロータリーソングが心の中を流れていた。H会員は早々に外国からの来賓が並ぶ隣のテーブルにリーフレットを持っての外交開始。「うまくいった」と顔を紅潮させて満足そうであった。
secretary本来は夜8時からの参加予定であったが、午後1時からの本会議参加に変更して貰って、その間の時間を利用「友愛の広場」へと向かった。いよいよ私達会員の出番である。会場にはIYFRやエスペラント語、IT、動物愛護などロータリーの同好会のブースが並び大阪大会のためのブースは、会場の中央に設営され、記念バッジや大阪紹介のパンフレットが並んでいた。ロゴ入りのはっぴを着た地区のロータリアンが、世界各地からの参加者にパンフレットやバッジを配るなどのサービスをしていた。私は、今年の阪神タイガースの上昇気流に乗りたいと、タイガースのはっぴを着て会場に臨んだ。出来るだけ、日本を余り知らないような人を捜してリーフレットを渡した。「私達のクラブは神戸のクラブと姉妹権携しているが、大阪と神戸はどのぐらい離れているのか。」とか「大阪って日本の何処にあるのか。」「東京からどのくらい掛かるのか。」などの質問も受けた。
マダカスカルから来た女性ロータリアンとはバナーの交換を行ったが、やおら篭の中から自国産業の絹織物のマフラー取り出し、買って欲しいと売りつけられ 35$支払う羽目となった。会場には、お茶席も用意され、現地で茶道を学ぶかわいらしい青い目の少女の振り袖姿や接待する日本人の着物姿が目につき多くの外国人が抹茶のお点前を受けていた。私も外国人に並んでお点前を受けながら、リーフレット、地図、折り鶴を出して来年度の大阪大会への参加を呼び掛けた。隣席のご夫妻は南アフリカからの参加のようで、「大阪には行きたいけれど”Too expensive”」とやんわり拒否された。でも、お茶はにがいけれど美味しい。「これは何か。」と出された和菓子に対する質問を受けた。また、会場には多くの土産物店が並び、中でもオーストラリア特産のオパールやアボジリニに関した民芸品、オーストリッチなど人気商品で、H会員の目の輝きが変わったのは云うまでもない。どんなに素晴らしいものを手に入れられたかは本人にお聞き願いたい。
本大会いよいよ本会議。コンベンションホールはアリーナのサイドに舞台を設け、すり鉢状の三方から観るという、条件としては良好とは言えず、記録は取りにくいものとなった。各国の国旗が馬に乗って入場してくる騎手の手で披露され、日の丸が入場してきたときは我々は一生懸命拍手した。開催国オーストラリア、アメリカの国旗が入場したときも盛大な拍手が起こり、参加者の多さを感じた。最後にアフガニスタン、イラクの国旗が入場し、会場内では二つの国の平和を祈願するような大きな拍手の渦に包まれた。大会宣言、オーストラリア国歌の演奏、物故会員への黙祷などののち主なセレモニーが順次進んだ。内容についてはPoor Englishの為、部分的にしか理解できなかったが、ブリスベーン市長の歓迎の挨拶やポリオ撲滅、ロータリー100年を迎えるにあたっての話など所々領き、時には会場がどっと笑いの渦に包まれる中できょとんとする光景も経験した。やはり国際語には強くなりたいと実感。
夜は、Y会員とも合流し、シーフードを食べ、一日を終了した。

第4日目 6月2日(月)

午前8時30分ブリスベン発QF1921便にてアリススプリングスへ、ここでQF1941便に乗り継いでエアーズロック空港に午後1時5分到着。
着陸目前、飛行機は、サービスのため何度もエアーズロック周辺を旋回し、眼下に見える世界文化遺産を披露し、堪能させた。
デジリデュウタ方からサウンド・オブ・サイレンスというツアーに参加。デジリデュウという堅い木で出来ているアボリジニの楽器の演奏が小高い丘マウント・クーサー展望台の上で演奏された。深い響きのある楽器で、異国に来たという思いと砂漠の中の大草原という自然に調和した音色にしばし聞き入った。ワインを飲んでいたところ、突然「Nさん」という日本の音声に驚きながら振り向くと、大阪平野RCの幹事ご夫妻だった。本大会ではお目に掛からずに、こんな処での再会をお互いに奇遇だと云いながら話した。大阪平野RCからは14名?の会員さんが、世界大会に参加されたようだった。音楽鑑賞の後は少し移動して、別の丘に到着、冬場の太陽はすでに沈んで、「たそがれ」と云えるほどの夕闇、ワインを飲みながらブッフェスタイルの夕食をする。食後、全ての明かりが消され、漆黒の闇を迎える。しかし、夜空には満天の星、糸のような月が西の空に傾いていた。まさに星の観測には最高の条件。解説者が現れ、いろいろな神話を交えて夜空の星を、特徴有るトーンで語る。その声を除けばまさに静寂の夜。天の南極からは少し離れて天空高くサザンクロスが、その傍には石炭袋と呼ばれる暗黒の部分、ケンタウルス座のアルファ、ベータ星が、そして日本で観るのとは逆さを向いたその赤い目アンタレスが光るさそり座、太陽を除けば地球から見える最も明るい恒星おおいぬ座のシリウス、日本では地平線に近く、観ることが難しいことからこの星を観ると長生きすると云われるカノープス、そして木星、悠久の宇宙の星達の静かなシンフォニーに満足しながら夜10時無事ホテルに帰った。
因みに、この日のこの地の気温は、3℃~25℃であった。

第5日目 6月3日(火)

ウルル広大な砂漠の中のホテルを6時30分に出発し、エアーズロックに向かっていく。日の出前の東の空には明けの明星が輝き、赤、紫、青に染める地平線を見ながらバスは走る。目の前にはあのエアーズロックが巨大な山肌をまだ薄黒く見せていた。大きな地殻変動と長い歴史とその自然の偉大な力を感じないではいられない。旅行社が用意してくれたおにぎりと柴漬け、お新香そしてみそ汁を食べながら日の出を背にして待つ。7時24分日の出。日の出と共に黒っぽかった山肌が様々な色調を見せ、我々は再び自然の雄大さに感嘆する。
エアーズロックは先住民アボリジニには“ウルル”と呼ばれ、彼等の聖地として守られてきた。世界最大の1枚岩と云われるウルルは高さ348m、外周が約10kmで酸化鉄のため表面は、赤褐色をしている堆積岩である。見る方向によっては地層の傾きは大きく変わり、その縞模様が変化する有様は言葉に尽くしがたい。現在も、写真撮影が禁止されている場所も多く、アボリジニの聖なる地には違いがない。
会長とH会員は登山を決意、私と国際奉仕委員長は途中まで登るつもりで登山口につく。雲一つなく果てしなく続く紺碧の空を眺めながら、4℃という身を縮ませる寒さの中、急坂な斜面を太い鎖に捕まりながら登山開始。日頃、堂々とされている国際奉仕委員長のへっぴり腰を目の前に、約3分の1位の高さにたどり着いた。何度口にしても足りない“雄大”“広大な自然”そして果てしなく続く砂漠。ユーカリなど厚い葉を持つブッシュが散在するオーストラリア中央のウルル・カタジュタ国立公園。帰りの急斜面を考えると「進む勇気よりやめる勇気」などと、自らを慰めながらの下山。
ここでふっと気がついた。オーストラリアには日本と同じ時刻を持つ地点はないのだ。ここは日本より30分進み、パースは1時間遅れる。時差0の地点は何処? 何でだろう? 何でだろう?
登山の後、ウルルを一周して、昔のアボリジニ人の生活や信仰の跡を見学した。Kuniya moves in to strike Lusa.という表示もあった。クニヤという女性とルサという毒蛇の戦いの様子など記してあった。また、谷間の小さな泉を囲んでそそり立つ岩壁には、ワナンピ(蛇の神様)が泉の水が枯れないように見守っているという伝説も聞かされた。洞窟には、素朴な壁画が描かれ、そのペイントに使われた塗料は動物の脂であるらしいということも説明してくれた。
午後2時発の飛行機で西オーストラリア最大の都市バースに向かう。ここでも時差があるためにフライトは3時間30分。
果物探知犬パース空港に降り立った。国際線乗り場もあるというのに滑走路は大きいが見かけは小さい空港だ。オーストラリアは大きい国のため州が違えば国が違うのと同じである。西オーストラリアには他の州からの果物は持ち込めない。パース空港での特筆はなんと言っても果物探知犬だ。空港には2匹のビーグル犬がお目見えし、カスタマーの一人一人の荷物の臭いを嗅いでいく。ある人の前で彼は座り込んだ。果たして彼女の鞄の中からはりんごが1個出てきた。このりんごは果物専用のゴミ箱に。私は、果物は全く持っていなかったが、今朝貰ったナップザックの前に彼は座り込んだ。一瞬「この犬はアホか。」と思ったら、数時間前このナップザックに入っていたリンゴの臭いに反応したらしい。犬の嗅覚の鋭さに脱帽!
添乗員の出迎えを受けて、まだ歴史のあたらしい西オーストラリア最大の都市パースの街に入っていく。途中流れているのかどうかさえ解らないほど静かなそして大きなスワン川、河口付近では湖のようにさえ見えた。ガイド氏の息子が通うという西オーストラリア大学、ベルタワーやトラファルガー教会を見ながらホテルへと向かった。このパースも教育熱心な街のようで、中でもクライストチャーチ・グラマー・ハイスクールはエリート校で子供が生まれたときに入学申し込みをするのだとか。以前キャンベラを訪問したとき、子供が生まれたら先ず第一にクリケットの会員申し込みをし、次に入学したい学校に50$を納めて予約し、やっとその次に両親に子供が生まれたと連絡するなどと冗談のような話を聞いたのを思い出した。この州の大学入試は、高校3年の成績と州で実施される試験(日本のセンター試験?)の双方の成績によって決定されるということだった。
夜は、回転寿司(sushi train)へ、ウニやウナギは味も良く好評だったが、アルコールが販売されず、必要ならば何処かで買い込んで持ち込むと良いということだった。日本のように100円均一ではなく、皿の色によって分けられたねたによって1.80$~4.50$だった。少し遅かったのでアルコールを売る店は閉店でアルコールなしの夕食となった。料理店でアルコールを出す店は、登録する必要があり、帳簿も別に付けなければならないようだった。

第6日目 6月4日(水)

朝、9時のPick up。ガイド氏は48歳、大阪出身。我々の大阪弁に共感したのか、舌もなめらか、吉本ののりでのガイド。植物に関する知識も豊富、地域の情報量も多く、自分のポリシーも全面に出す多弁家。北半球と南半球の違いについて、風の吹き方の違い(北半球では反時計回りに風が吹き込み、南半球では時計回りに風が吹き込む)の説明に乗じて、水道の水の排水による渦の出来方も反対になるとか運転しているドライバーの頭のギリの巻き方も逆向きだとか、果ては地震もない洪水もない火山活動もないこの地において我が家には「活火山」が居るなどという冗談が続出。排水の水によって出来る渦については大学の先生がそんなことはないって否定していたっけ。
カフェまず、フリーマントルへ。フリーマントルという地名は、1829年初めてこの港に着いた船長の名前であり、パースという地名は、スコットランドのパース出身の人が初めてこの地を統治したことから名付けられたという。
開拓時代を思わせる港町・フリーマントル。フリーマントルは1829年から移民しはじめたイギリス人によって街が開けたが、アングロサクソン系の彼等は魚を食べず、だんだん魚肉を食用とするイタリアやギリシャ人が多くなったということである。カプチーノ通りと呼ばれるサウステラスストリートの老舗のカフェでコーヒーブレイク。素晴らしい香りと味の店だった。
また、ヨット愛好家にはアメリカンカップズで一躍有名になった街であるらしい。この港がアメリカのシカゴ、ニュージーランドのウェリントンと並んで良い港とされているのは風が強いと言うことがあるらしい。現在80万艘のヨットがこの街にあるということだった。
オーストラリアは先住民アボリジニを追放し、ヨーロッパ人が支配していったという歴史でも解るように、フリーマントルにも10,000人の政治犯や刑事犯と決めつけられたアボリジニ人を収容した刑務所跡もあった。
昼食には、地中海料理。午後はレモンツリーやユーカリの大木が生え、美しい芝生の上に立つキングスパーク・植物園に。海に面した 「ささやきの壁」には歴史的な戦いを示すメモリアルプレートが、年代順に並び、その壁面の椅子に座ってプレートに向かってささやくと遠方に座った相手にその声が届くようになっていた。またその樹皮に、食物を包んで蒸し焼きにするというペーパーバックツリー、日本人が桜の花を愛でるように、木全体が紫色を呈し、花が咲くと夏が来るとこの国の人が愛するジャカランタの木などの下を歩いた。この公園の一隅に 「Perth RC」が設置した水槽があって、善意のコインを入れるようになっていた。私たちも思い思いにコインを投じた。
インド洋太陽の輝きと水面を撫でる爽やかな風の中をゆったりと流れるスワン川。そのスワン川が流れ込むインド洋。海岸には白い砂浜と大きなうねりの波が押し寄せ、もう冬を迎えるというのに十数名の老若男女がサーフィンを楽しんでいた。このパースは雨が少なく、高い山も付近にはなく洪水がない等の理由により水際近くには高級住宅が建ち並んでいる。この地域の人の水への憧れか川や海に面した住宅や土地は、その価格が高く近年さらに急高騰を続けていると云うことである。湾を見下ろす高台には、鉱石を掘り当てた人が建てたという約30億円の白亜の家があり、この持ち主の数奇な人生が語られた。この人は妻の死後、この家のメイドだったフィリピン女性が40歳の年齢差を超えて結婚し、間もなく夫は死亡、子供達から妻が自分の父親を殺したのではないかと訴えたが、夫の死後相続によって、この家を得て現在元夫のフィリピン人男性と居住しているということである。因みにこの地域では相続税は無いのだという。
パースのシンボルとなっているブラックスワンの居るモンガー湖では、会員それぞれが童心に還ってブラックスワンやペリカン、カルガモに草をむしって餌を与えて楽しんだ。
夜は、旅行社が用意したチャイナレストランでの中国料理。京都乙訓RCのグループ21名と同席し、互いに名乗りを上げて来年度の大阪大会成功への絆を深めた。料理が、予定のものと違うというハプニングがあったが、国際奉仕委員長とガイド氏の采配で解決。紹興酒と人の温かさに満足して一路ホテルへ。

第7日目 6月5日(木)

午前8時30分ホテルをPick up。ガイド氏の見送りを受けてパース発午前10時、QF642便にてシドニーに向かう。機中から見るオーストラリア大陸は、その3分の1が砂漠であると云われるとおり、酸化鉄の赤茶けた砂漠が気の遠くなるほど延々と続く。家も農場も山も見えない。5時間あまりのフライトで定刻通りシドニー空港に着く。パースとの時差は2時間。さすが、オーストラリア第一の都市、人も多くその中に日本人も多い。ここでも大阪そねざきRCの女性軍と出会う。彼女たちは明日帰国するという。シドニーはオーストラリアの総人口1,900万人の内400万人が住み、多国籍の人々で占められている。最も早く開けたシドニーは、最初白人のみの居住が認められたが、ベトナムやカンボジアからの難民の受け入れを皮切りに多くの国からの移住が進んだらしい。因みにオーストラリアの首都は、キャンベラで、人口は30万人である。すでに季節は冬なのに、それほど寒くなく、まだ半袖姿で歩いている人もいる。
空港には、てる子さんが我々を出迎え、ホテルへと案内。この日は「レイトナイトショッピング」といって、水曜の午後か木曜の午前に支給される勤労者の週給を当て込んで各商店が閉店時間を繰り下げているという。
この州の義務教育は15歳までで、高等学校では履修した12unitsと試験 HSC(High School Score Certificate?)の証明がないと大学進学も就職も出来ないと云う。約4分の1が私立学校だと云うことである。
また、会社や公共の施設での喫煙は禁止され、ビルの外に出て隠れるようにたばこを吸っている人達を見かけた。さらにたばこの値段は大変高く、たばこ1箱の値段は、米3kg、砂糖5kg の値段に匹敵するという。
夕食は、ホテルの36階にある「雲海」での和食。Y会員と私は「すき焼き御膳」会長、国際奉仕委員長、H会員は「しゃぶしゃぶ御膳」。最初に出された鯛のみぞれ蒸しなどの先付けには、さすがと感嘆の声も聞かれたが、メインのすきやき、しゃぶしゃぶはパサパサのオージービーフとまずいタレで幻滅。やはり外国で日本食に味を求めるのは無理なのかも知れない。ここで会長が、例会開始直前の我がクラブへ電話。持参された携帯電話が本領を発揮、その便利さを披露した。気分転換に繰り出した夜の散歩は、シドニー湾に面するオペラハウス傍の店でカクテルを少々。閉店とはなっていたがビット・ストリート・モール街を約1時間半歩いてホテル帰館は12時半。

第8日目 6月6日(金)

朝9時30分のPick up。てる子さんのお迎えで専用車にてシドニー湾クルーズに出かけた。途中、シドニーの開発に向けての発祥の地ロックスへ。ロックスは植民地を失ったイギリスが1788年1月18日キャプテン・アーサー・フィリップの率いる最初の船隊がシドニーの入江に流刑地を設立する目的で1,000名の兵隊や囚人と共に上陸した地である。ここでテント生活をしながらマウンテインプレイスという処へ毎日水を汲みに行き、馬車で運んだ。この馬車道が現在ロックス・ストリートとなっている。ザ・ロックスには100の古い建物が外観を残し、州政府の保存地域となっている。
シドニー湾いよいよシドニー湾クルーズ。船の中から見えるシドニー湾に1932年に架けられたハーバーブリッジが素晴らしい。ハーバーブリッジはオールド・コート・ハンガーの愛称が付けられている通り、洋服かけのような形をしている。アーチのトップは134mの高さがありこの上に登るブリッジ・ツアーなるものがあり、当日も多くの人達がオーストラリア国旗の立っている処を目指して登っているのが見えた。さらに振り向くと世界一美しい建造物といわれるオペラハウスが紺碧の海に映える。空は雲一つなく遥かかなたにシドニー空港へと向かう飛行機が見えた。ダウンタウンの高層ビルの合間からシドニータワーが見え、逆方向には緑の森が美しい。海に面した高級住宅やプライベートな船着き場を持つ豪邸を見ながら、潮風に身を任せながら至福の時を過ごした。私達のために用意されたケーキとクッキーを狙ってカモメが舞い降り、目前にまで近寄ってくる。とても快適なクルーズだった。
昼食は高さ305mのシドニータワーでのバイキング。眼下に見下ろす情景、約40分で1回転する大パノラマ絵巻にも満足。
シドニー湾の写真をと降りた車の車上荒らしに逢い、添乗員は自宅の鍵やスケジュール表、現金の盗難。Y会員は、鞄などが盗難にあった。比較的安全だと云われているオーストラリアだが、多くの人が混在する観光地などでは外国に限らず 日本でも危機管理は自分でするしか仕方がないのだろうかと痛感した。
いよいよ今夜は、我々のツアーも最終日を迎えた。会長主催の晩餐会が、フォーティーワンというビルで行われた。この旅も終わりかと思うと何だかあっという間に過ぎたような気もする。まずは、お奨めのワインで乾杯。「皆さん、楽しかったね。有り難う。」此処で頂いた夕食は、なかなかの美味で、会長主催にふさわしい品格と味わいを持っていた。夕食の後、少し散歩をしないとと云いながら、QVB(Queens Victoria Building)に、閉店していたが、やはり外観も内部もなかなか美しい建物だ。Y会員、H会員と15 分で一回りするメトロ・モノレールに乗って、ダーリングハーバー、チャイナタウンなどを通って1周、4$の小旅行。

第9日目  6月7日(土)

ホテルを8時50分 Pick up。帰路につくためシドニー国際空港へ。空港のTRSで免税による金額返還手続きを完了。11時35分発JAL778便。搭乗口近くで千玄室氏の一行と再会。千氏から私とH会員との方に来られて「オーストラリア旅行と世界大会を楽しまれましたか?」と言葉を掛けられた。機中の人となって約1時間半が過ぎた頃グレートバリアリーフの珊球湖礁とエメラルドグリーンの海が眼下に見えた。機内の画像にOutside Air Temperature -41 ℃、Ground Speed 920km/h, Time to Desternation 6 hour 23 minutes, Distance to Destination 5513km, Altitude 10363m, Local time at Destination PM 1:37 などと表示され、機長がケアンズ上空にいると報じていた。いよいよオーストラリア大陸ともお別れだ。ブリスベンからパースと東西に移動するのに6時間、シドニーから南北に移動するのに2時間なんと広い国だろうと改めて感じた。
定刻きっちりに関西空港に到着。「あんたらきっちり税関申告せなあかんでェ。ロータリーの名に恥じるで。」という国際奉仕委員長の厳しい御言葉をしっかり
受け止めたのは会長さんだけだったでしょうか。私などはパスポートを出しかけたら「早よ、行け」とばかり手を左右に振って出口へと急がされた。会長エレクトが、お出迎えに来て下さった。Y会員はご令息夫妻と可愛い孫ちゃんのお出迎え。そういえばY会員が、Duty Freeのお店で可愛い子供服を購入されるのを見た。今回、旅行の企画を担当したJTB教育旅行の担当者の出迎えもあった。
皆様ごくろうさま。たった9日間でしたが家族のような親しいお付き合いが
出来、世界のロータリアンとのコミュニケーションも大切だったが、まずは我がクラブのお互いに親交が深まった意義は大変大きいと実感した。
今回の世界大会参加に対して、大阪イブニングロータリークラブの会員の皆様のご支援とご協力、そして事務局にもお世話になった。の場を借りて皆様に感謝の意を表したい。